HEROS

2018.2.19
no.12
武山 参奨
MITSUMASA TAKEYAMA
ふる里料理つる屋やランドマークフェスティバルイシノマキを開催し、石巻を熱く面白くしている情熱的なヒーロー

プロフェール


武山 参奨
ソウブコーポレーション株式会社代表取締役
ふる里料理つる屋店主

宮城県石巻市出身、震災をきっかけに多くの活動を行っており、ふる里料理つる屋やLANDMARK FESTIVAL ISHINOMAKIを開催し、石巻を熱く面白くしている。

 


俺はラッキーボーイだよ


 

なぜヒーローになられたんですか?

武)地元が石巻で、でも中学校までしかいなかったんですよ。それでとにかく中学校地元で遊びまくって、頭は良くなかったんですけど、運動神経だけはずば抜けてよかったので、中学校から剣道を始めたのですが、国体指定高校からスポーツ推薦のお誘いをいただいて、すごく大変だったんですよ。自分たちの翌年から宮城国体だったので宮城県の力の入れ方が全然違くて、毎月全国遠征しに行ったりして、3年間すごく大変で、12年のときはやはり辛くて。でも3年になったら王様でした(笑)それでもう、3年になった時に王様ぶりを発揮しすぎて、大学ってなった時に、剣道部の前の先輩が有名な大学に多く進学していて、推薦お誘いをいただいたんですけど、また1年生からやるのかと思ったときに、剣道をやめました。

それで、父親が建設業をやっていたので、実家に戻ってきたといいますか、とりあえず成績表持ってこいと言われて。もし工業系で進学できそうなところがあれば、紹介してもらえることになったんですけど、成績が良くなくて紹介できないってなって、剣道しかしてなかったので、でも平常点は無遅刻、無欠席、無早退で全国でも成績を残してると、学校の先生達の目からは良かったです。体育科で、剣道部っていうと待遇がいいし、部活も朝から晩まで行うので授業中は寝てしまっていて、勿論勉強はできなくても、授業は必ず参加してるから、テストとかも剣道部用の補修があって、月の半分は全国で剣道していたので、戻ってきても授業何やってるからわからないっていうのがあって、頭がいい方じゃなかったので、それで父親に戻ってこいと言われて、その当時、木村拓哉が建築のドラマの主人公やっていて、恋愛ドラマだったんだけど、そういう仕事もあるんだなというか、実家が建設業だったから、構造ベースで、ウワモノをあんまり立てなかったんですよ。その時これをやりたい、建築勉強したいと思いました。そしたら父親もそれならしょうがないなって。推薦とかコネとかもないから自分で決めると言って、学校のことや、金のことも調べて、協力して欲しいとお願いをしました。それから宇都宮の専門学校に2年通って、建築する計画などを学ぶました、それで2年間遊びつくしてきて、帰ってきました。

最初は、親の会社をやってて、多角経営ということで、飲食店をやっていたのですが、会社の身内の人たちが誰もいないからっていうことで、主任みたいなポジションについてやっていました。22歳のときにこっちを任せるってことになって、自分で飲食店をやる事になったんですけど、ただ食う専門だったので料理したことがなくとりあえず、飲食店に研修システムがあって、半年ぐらいいたのかな。わかんないからそっち行って、そしたら寿司も覚えたいって色々始まって、あとは串焼き専門だったり海鮮専門だったり。自分いろいろ勉強してもいいかと思い勉強していていました。23歳からここまでやってきてるから今12年目、今も飲食店やっています。

そういう生活を続けてたら、震災が来て、飲食店をやるよりも、父親の建設業が偶々北上川から箕和田の道路をウチが維持管理工事していて、草刈りしたりとか、シカが引かれてたらそれを撤去するとか、アスファルトに亀裂が入ってたら直すとか、それが道路が無くなりました、橋が無くなりました、家が無くなりましたってなって、雄勝方面にたどり着くための道路がまず無いと、安否が確認出来ないと、それで父親がまず社員全員に連絡したときに、奇跡的に社員全員が無事でそれは天命なんじゃないかってことで、早急に自社が持ってるトラックだとかダンプとかなんでも導入して、それで道路をもう一度作り始めました。

川のところから、4時間体制で昼間、夜、昼間、夜ってみんなでやって、みんなで寝ないで作ってて、その道中ずっと地震なんで、水の中に道を作っていて、めちゃくちゃ危なくて、それでアラームが鳴るから、みんなで上の方にあがっていって、全然来ねえけど大丈夫なの、とか凄い寒い中、みんなでとにかくやったんだよね。昼間は昼間で、道路回りのゴミとか片づけたりとか、亡くなった人達の遺体を回収したりとか色んなことをしていて、いつも行っていた海が凄いきれいでよくサーフィンしにいったりとか、子供のころなんか海水浴とかよく行ってた場所で、海に行くってことでテンションが上がってワクワクするんだよ。だけど、その子供のときが凄い覚えててその光景が、結局全て壊れた瞬間を見た時に、やっぱ結構衝撃でした。明日来ない日があるのか、って思った時に今色々やってる原動力じゃないけど、その常に死を思うことは大変かもしれない、でも明日死ぬ可能性もあるとか考えると、じゃあ今何がしたいのか、じゃあどう動かないといけないのかとか、優先順位だったり、何年後にこうなりたいとか、何年後かにこういう風にありたいとか、だから今死なないために頑張るっていう、そういう単純なところなんだけど、ただそういう風な思いをしたじゃないですか、だから自分の人生は自分次第だと思う。

自分がどうありたいのか、どういう最期を迎えたいのかっていうのがあの時感じて、ずっと道路の作業をまあやったりとか、それをとにかく日常に戻す作業を、そうこうしてる内にビッグバンっていう総合体育館で、800人ぐらい当時いたのかな、ずっとここの生活もきついから、ちょっとでも安心して寝れる場所とか、それでも800人ぐらい人居て、やっぱ5年ぐらいやってた店やってたので、やっぱり色んな人に会うんですよ。肩見狭い思いしてるとか、楽しめるものがないとか、みんなの口から聞こえてくるものは、今現状大変な事が起きてるかもしれないけど、やっぱどこかでそういう面白いことだったりとか、心の休まるようなことやりたいとか、酒が飲みたいとか、あったかいご飯が食べたいとか、そうでもしなきゃ多分普通に保てられない程凄いことが起きてたと思うんですよ。友達とかもいない、妹が見つかんないとか、奥さんいなくなったとか、お父さんお母さんと連絡とれないとか言って、そういう色んな人が多くて、それで、俺もこっちのことが片付いて、昼間教わってた親方と連絡が取れたんで、いろいろ探したんだけど連絡取れなくて、お店行ったらヤバイことになってて、落ち込んでるところとか見て、なんとか出来ないかなって思っていて、偶々うちの店は、災害っていったらコップが割れた、グラスが割れた程度だったから、店は全然普通だったので、俺がなんか炊き出しかなんかをやろうとしてそれで、会社のみんなにご飯を作ってあげようと思って、飲食店に発注システムっていうのがあるんだけど、それってこう常温でも食べられるものだったりとか、解凍して食べられるものとか、ちょっと火を入れるだけで簡単に作れるんですよ。

もうコンビニと一緒、それで色々発注したら、昔石巻にその飲食店が6店舗あって、だけど自分の所以外の5店舗が全部流されてて、それで養老乃瀧の発注をした時に帰ってきたメールが、ガソリンがいま高価になってしまって、こっちに来れる道路もあるかどうかも分からない状況で、その大量の発注を持っていくための人件費と燃料がもったいないみたいな言われ方をして、こっちに持ってこれないみたいな事を言われたんだよ。そして、ふざけんなよってなって、めっちゃブチギレて、いやいや、今こんなこっちでね現状も見てないで、持ってこれないんだったら持ってこれるような道路通ってきたらいいだけの話だし、ただ単純にこっちに来て少しでもこの現状をって、まあ逃げたなって思ったの俺は、別にだってお金を払わないわけじゃないし、その発注ってずっと何年も継続してやってたのに、そういう大手の人たちってそういう風に手のひら返すようなことをするのかって思って、でまあ正直その、冷静に考えれば俺がその立場だったらそうするなとかっていうのもあったんだけど、その時はやっぱり結構精神的に何かあると人にかみついてるみたいな、明日死ぬかもしれないって思って生きてるから自分の思いを通したいんだよね、それが通せなくて死ぬパターンとかもみんなあったからさ。どうせだったら、やっぱり通したくて本気でぶつかってたんだよね、いろんな人達と。俺はこう思うんだとか、その時は色々にはこう言われたから、頭にきて、じゃあ看板もう下げますからって何年もお付き合いしてて、それで自分でこっちでやるから後は口出すなよって、後から会社行ってその契約書見たんだけど、3年以内に同じ場所で居抜きみたいな感じで飲食店同じ人がやると違約金100万円かかるっていうのがそういうのがあって、うわやっちまってるとかその時思ったりした、けど関係ないし、ってその時は強気で、発注したものを持ってこないそっち悪いんだろっていう俺の思いね。

とにかく、その被災してたその800人近くの人が少なくともそういうものを欲しいとか、居酒屋いつ再開するのとか、そういう思いにこたえてあげたいっていうのもあって、湊の親方にウチの店立て直すから、是非こっちで、その時給料も凄く高い金額を提示したの。何故かっていうと、店やっぱり復活させてほしかったから、家族もいるし、子供たちもいるし、後そのずっと仲良くやってたから、少しでも恩返しじゃないけど、今から儲かるかどうかもわからないけど、まあ心意気でその提示を出して、でこっち来て、じゃあ一緒にお店をやろうってことになって、でもう一人寿司職人を探してきてくれて、寿司とかも食いたいじゃんみんな。で、仕入れのルートとか、親方の繋がりとか、すげえこう動いてくれて、地元の魚屋さんが凄いふんばって、仙台まで仕入れ行って何してんのやって言ったら、石巻ダメだ、魚なんてねえからとか言って、朝早く起きてずっと行ってくれたりとか、みんなのその前に進もうっていう気持ちで出来たのがこのつるやっていうお店で、でその時にふるさと料理つるやっていう名前が、まあ故郷の料理、要はもうその時に外から仕入れる方法が少なかったから、作ってる生産者って言ったらあれだけど、畑のおばちゃんのところに行って、これほしいから売ってくれとか、それで大目にいっぱいもらったら色々漬物とか作って返してこれ作ったからみたいな付き合いをずっとしてたんだよね、で地元のものっていうか食文化つったらそうなんだけど、地元ってここに住んでて、ここの食べ物を食べて、あの成長してくのが一番人にストレスがないものだと思うのね、そこに住むのであれば、口があってくと思うのそこの食べ物が、でそういうのもあって、まあその地産地消っていうかそこのものがちゃんとそこの人たちに消化されていくっていうのを、知らず知らずのうちにやってたんだよね。

だから、そういう故郷の料理って、地元のというか大きくみれば日本さ、もっと俺らの住んでる国っていうか。でもっと、ピックアップして、そういう地元のあまり目立ってないそういうもので俺らが料理っていう形にして、それでふるさと料理っていうのと、でそのつるやって言うのは俺のひいおじいさんとおばあさんっていうのが震災のとき100歳、103歳で亡くなったんだけど、まあその時生きてて、なんかすごい愛されてて、俺もすごく大好きで、その震災があって、冗談じゃないけど、もう最悪だよねこの世の中とかって、タイタニック初めて見た時のショックみたいな、なんていうの、あれパニック映画じゃん、こういう風に人を掻き分けて、自分が助かろうとか、そういうものを映画じゃなくてリアルで観測してしまったの、強盗、窃盗だったり、犯罪が凄い簡単に起きて、こんなにタガが外れた人はこんなに悪さをするのかとか思ったり、そういうのもあって、すごく嫌気が刺してたときに、こういうお店を始めるってなったときに、俺もうそんなに長く生きれないけど、もしお前がそういう選択をしたら亡くなっててもずっと見守っててやるよ、っていう言葉をもらって、じゃあ103歳まで生きたそのツルヨっていう名前を貰うって言って、ひいおじいさんみたいに100年愛されるような店を作ってみようかなっていう気持ちでやるよっていう思いで、ふるさと料理つるやって名前にしました。

それが始まりで、そのまま親方も来て、じゃあつるや始めようっていうことになって、その1か月後にランドマークフェスティバルっていうのをやって、61日に店をオープンさせてるの、で壁紙とかもやり直して、普段頼まない畳の職人さんとか、とにかく被災した人たちに仕事をいっぱい振ったんだよ色々、その出来るんだったらやってほしいとか言って、でいろんな人たちの協力の元、まあ地元の人たちだけで作ったんだよね。

後は料理を作るだけだってなって、だから、震災があって店で2か月で作り直して、3か月目でオープンさせてっていう、一番早かったこの辺りでは、でこう連日いっぱい人来るの、でみんな飲んでて、最初あったかい料理食べれてテンション上がって、みんな飲んだりしてるんだけど、やっぱり最後は泣いちゃうんだよ皆。酒飲んでても思い出して、どうしたらいいんだろうか、家族失った痛みとか、友達だったり彼女とかを無くした痛みだとか、結構みんな色々気張ってる人たちとかのそういう一面を見た時に、脆いなって思ったのね色々。ほんとに人間の強がってても、心底なかなかそういうのはぬぐい切れないんだな悲しみっていうのはって思って、でこう、なんていうのかな、みんな下しかみれないような状況で何か出来ないかって思って、俺の同級生が東京でロックバンドやってるんだけど、そいつがお店に物資かなんか持ってきてこっち来てくれたんだよね。

その時お店に来てくれて、俺ら音楽やってるんだけど、なんかライブとかやるかってなって、それいいねって、それでビッグバンでやろうってなって、それでいいねってなってビッグバンサポート入ってて館長の人が良くお客で来てくれてめっちゃ仲いいから、俺の名前出していいからって感じで、翌日行ってきたんだろうね、それで戻ってきたら、断られたとか言って、それで文句言いに行って、こう持ちつつ持たれつつやってて楽しいこと一つだけあってもいいじゃないですかってなって、そしたら他の避難所で外に出せない出来事が多すぎるとか他の連携とかも含めて、ウチだけがライブとかをやったら何を言われるかわからないってなって、水とか食料を貰ってて申し訳ないけどそれは受け入れられないってなって戻ってきて、その夜みんなでまた集まって飲んで、現状を話し合ったんだよねみんなで、やっぱり俺は同級生がバンドやってる、そういう状況がある、でも俺はライブとかそういうの見たことも行ったこともなかったからその時まで、やりたいっていうならやりたいって思ったし、俺も見てみたいし楽しいことを、とにかく沈黙を破りたかったの俺は、震災があって、その後自粛、自粛、自粛ってもう、つまらない世の中になったなと、パチンコ屋もやってないわ遊ぶことも出来ないわ、それがストレスで犯罪に結びついてるっていう現実を見てるから、ストレスが溜まってるな、ガス抜きをしたかったんだよね、悪い気が溜まっているような気がしたんだよね、あそこに行くとテンション下がるから、もうみんな泣いてたりもうすごいから、だからずっと沈黙を破りたかったっていうのをあるし、それで2011年の7月にカラオケやをオープンして、その半ばくらいにランドマークフェス、初めての野外ロックフェスっていうのをやって、その時にバンドやってる友達が全国でツアー行ったりして仲良くなったバンドマンで来れる人たちを全員集めてくれて、でもその時ギャラとかそういうの分かってなかったから、みんな自腹で来てくれてるから、俺はライブとか行ったことないから音楽やってるやつに、フェスしたいんだけど、って言ったら、転換とかそういうライブ関連の言葉を覚えたりとか、とにかくタイムスケジュールとかを全部1から考えたんだよね。それで、簡易的だけど、ステージがあったほういいよねってなって、トラックステージ1台借りてきて、そしてビッグバンからテントとか備品とか借りて皆でやって、図面かけるやつと一緒にこういう風にしようぜってやって作って、誰か手伝えないかって同級生とかに連絡したり、ボランティアスタッフやってとか、出店したい人いないとか呼んだりとか、っていう風にいろんな人たちの気持ちが重なってランドマークフェスティバルっていうのが出来たんだよね。

で、とにかく1日やり通して、その後にみんなで飲んだ酒が旨かったんだよすげえ、さっき言った死ぬかもしれないと思うからなんか一つ一つの出来事大切に出来るって思うか、あの時はみんなでやろうっていう事が目的だったから、やってみた後に感じたこととか見えた景色っていうのが凄くて、だから10年必ず続けようっていうことになって、震災があった年に生まれたものでさ、俺らが10年頑張って続けたら楽しいものが10年続いたっていうことになるでしょ、そういうものを震災の分からない世代とか経験や悲しみを知らない子供たちとかに、まあ入り口はこういうことがあったんだっていうのは伝えていかないといけないことじゃん、でもマイナスなイメージが先行じゃなくて、震災が分からないけどランドマークフェスは楽しかった、じゃあ何故ランドマークフェスは出来たんだってことに触れた時に、実はこういうことがあったんだってなったときに、あんな何千、万人が亡くなって、悲しみしかないときに、それでもなんか足掻いてやった結果、それが10年続いてるんだっていう風になれば、今その人がそれを知った時に今の生きてる自分の人生と照らし合わせてくれた時に、壁が一つ砕けるような背中の押し方だったら、出来たらいいなと思って、だからそのランドマークに関してはこの時もそうなんだけど、自分たちでTシャツを作って、そのTシャツを売った分、それを運営費に回して、とかまあ備品借りるときにだとか、そういうものとか、そういう感じでアーティストに何にも1円も払ってないし、けど来てくれたことが凄いうれしくて俺は、とにかくいいよ酒飲んで飯食って、もう大盤振る舞いでさ、もう大宴会だから打ち上げは。すげえ旨い酒とか、ここぞっていう時の酒をみんな持ってきたり食べ物とか、もう震災があって、ものの価値とかよくわかんなくなってきたから、取っててもしょうがないないからこれ飲もうってなって、水のように直ぐになくなるようにみんな飲むの。

まあそういう1日があって、まあそういうアーティストとか演者の人たちなのに皆テントもって運んでくれたりとか、テーブル並べてくれたりとか、その代わりに帰りに俺、地元を紹介してさ、バンドマンの人たちに、美味しいものを食べて帰ってもらうっていうことをやってて。

まあそういうのをもう7回続けてて、まあランドマークの2年目か3年目ぐらいに、手伝ってくれる人とか色んな人たちと出会えて、でOne Parkっていうところで東北Jamっていうイベントをする、その時の運営に声がかかって、図面作ったりとか、配置したりとか、ボランティアまとめたりとか、みんなでそういうの協力して運営やったんだけど、今度じゃあ俺らだけじゃなくて、お隣の女川でもやろうってことになって、来年は今度福島でやるんだけど。

まあそのつるやっていうのをやってそのランドマークがきっかけで、ほんとにそれで石巻の人たちとか、元々ほら俺中学校までしかこっちにいなかったから、戻ってきてからの友達とかもいなくて、同級生とかも全員上京してたりとかしてて、なかなかね。まあ、この石巻に対して限界めいたものを感じてて、それが自分一人でどうのこうので変わるもんだと思ってなかったから、もっと大きい目で外を見てたんで、外を知ってたかっていうのもあるんだけど、ちょっと衝突しようとしたり、なんかここら辺の人たちと問題が発生したりすることをちょっと背伸びして、遠くを見ることで問題視しないようにしてたんだよね、自分だけなんとかなってて、ちゃんとやってればいいんだ、最後は俺が残るんだっていう風な思いがあったんだよね。

だけど、震災あってそれが無くなって、見方が変わってさ、もっとここで生きてるそういう石巻の人たちの友達を増やしたいなとか、そういう風になんていうのかな、東北Jamとかそういうのを通して、やっぱり地域の人たちとよく話すようにしたりとか、後偶々サンファンバウンティスタ号って石巻にある400年前に海外に進出して成功した船があるんだけど、その時ってやっぱりもう隣の人たちと領地を争って戦っていた時代でしょ、でも宮城県のす伊達政宗が隣同士で戦っている時に世界に目を向けたっていうのがあって、サンファンパークっていう石巻の観光地の名所になってるんだけど、偶々仙台から友達が来てて、そのサンファン見に行こうぜってなって、サンファン見に行って、その時まだ乗れてさ、事務員さんにお金渡して、今日乗れますって言われてテンション上がって乗ってたら、青年会議所の当時の理事長の佐藤さんから電話かかってきて、ご無沙汰ですみたいな風に挨拶してたら、ちょっと相談事があるみたいなこと言われて、なんですかって言ったら、今度サンファン祭りっていうのがあるんだけど、22年間やってるお祭りでさ、22年間カクテルバーカウンターところやってるユウコさんっていうのが、銀座にお店出しちゃって、石巻の祭りいいわってなって抜けちゃったんだよね、でやる人がいなくなて、俺がその新しくしてからケータリングで荒吐ロックフェス出てたりとか、そういったそういうお祭りとかでケータリングを出すっていう事業を自分でやってたのを知ってたから頼めないかってなって、全然いいですよってなって、今どこにいたって聞かれたから、今サンファンにいますってなったらその人もサンファンにいて、えーってなって、今何処って聞かれたから今サンファン号乗ってますって。

プラスその時に青年会議所っていう団体がこうサンファン祭りっていうの支えてるんだけど、もうやってるメンバーの奴らの顔が凄い真剣だったんだよね。俺は10年前の父親の会社にいた時に青年会議所っていうのは入ってたの、でも自分でお店をやりますってなった時に、やめてるんだよね青年会議所を、父親の会社じゃないからって言って、俺の会社では年会費10万円を払った挙句に、プライベートの時間を石巻の為に費やすことはできないって言って断ったんだよ。でそういう経緯があって、10年前に入ってた人たちが今凄い理事長とかに凄いえらい人になってるの。宮城の中小企業の長とか。でも、若い人たちは知らなかったのその時、で悪かったなこういう時に対応してっていうのに、全然いいっすよみたいな感じで。

そしたら、まあそのサンファン祭りが終わった後の、まあ片付けから設営までちゃんと手伝ったのね礼儀だと思って、それで打ち上げ混ざってよみたいな感じで言われて、それで混ざって夜打ち上げ、その時その石巻の人達と話したり、もう結構そのサンファン祭りで感じたことを同じ目線で感じてる人たちがいて、へえとかって思ったの、正直俺相手にしてない部分があったから、もっと俺凄いの知ってるからとかっていう驕りみたいなのがあったから、へえってなって。もう1度みんなでやってみないかって誘いを受けて、じゃあもう1回入りなおしてもいいかなっていうか俺がそういう人たちと仲良くなって色々やってみたいなって思ったこいつ等とって思ったんだよ。で自分から入りたいですってなって、まあ10年前父親の会社で入ってやめて、10年後に自分の会社で戻って、出戻りってなって、なかなかいないんだよ、レアケースらしくて。それでOBの人たちが俺が戻ってきたことに喜んでくれて、それでまあそこから石巻のそういう行事とかお祭りとかで友達になったりして、それが今回のオファーにつながったのかなって。

バーっと話したけど、俺はそういう人間じゃない、だから、こう何か秀でてるとか、偶々、偶々だよほんと。

運がいいんだね俺。それはある。ラッキーボーイ自分の特徴って言われたらラッキーボーイかな。とにかく運に恵まれてるっていうのをちゃんと分かるようになってきた。

 


武山さんの必殺技


 

必殺技はなんでしょうか?

武)まあほんと人より偶々運が良くて、震災があったからそういうことに気付けるようになって、で考え方が変わって、毎日をどんだけこう安心して暮らしてきたのかなって思って、まあ1度剣道やってさ、3年間インターハイで優勝しようって、ほんとに1番を目指してやって、まあ東北で3位ぐらいしか行けなかったんだけど、まあそれでも、1つのことに情熱を費やしたっていうことは振り返ったら大事なことで、俺の必殺技は情熱のおすそ分けだね。
今、熱く生きようぜ、っていうかまあ楽しく生きようだよね、楽しく生きようよっていう。だからその、ワクワクさせる今後の展開というか、実はこういう事業を考えててとかさ、やってみたいとか、超面白そうとかそういう風にやって、みんなで街を作っていきたいなって。無いものじゃなくて有るものでやってきた。石巻これもあるし、これもあるし、これもあるし、無いものなら作ればいいしさ、有り方ってあると思うんだよ、生き方とかスタイルとか全部、それをうまく地域の人たちとコラボしながら新しいものとかを作って生きたらいいと思うんだ。世界を見たらすげえいろんなこととかやってるからね。俺結構外国とか行って、まあ中
3のとき悪いことして遊びまわってたら夏休みのときに親父につかまって、滅茶滅茶ボコボコにされて親父に2,3日監禁されて、出ろって言われたらスーツケース用意されて、それでチケットよこされて、仙台空港で降ろされてでここ行ってこいって言われてオーストラリアで。

でまあ外国行ってきて1週間ぐらいホームステイしたのかな、とにかく自分のことを知らないところの生活っていうのがやっぱりすげえ新鮮で面白くて、大体地元にいると俺の親父が会社やってるから、誰かしら分かってるの、喋ったことなくてもあっちが知ってるパターンとか、悪いことしたらすぐバレるとか。

で、怒られて、ヤキ入れられて、オーストラリアに飛ばされて、で帰ってきて、どうだったって聞かれて、とりあえず、英語無くても通じる、目と目でジェスチャーみたいな。

であと、19歳の時の建築の卒業旅行で、フランスとかイタリアの方とか美術館とか建物とか、日本人が建てた建物とかも観てきたし、凄い何百年も残ってる建物も観てきたし、やっぱこう、地球を色々こう見て回ったんだよね。台湾でしょ、ロサンゼルス、ハワイとかハリウッドとかも2年前くらいに行ってきて、色んなヒントがいっぱい世界に落ちてると思うの俺は、無いものを数え上げたらきりないけどこの地域は、だけど地球って考えた時に色んなところでいろんなことを考えてやってる奴らが居て、それをマネするだけでもいいし、それを見て、自分で何かをこう作ってもいいし、何かいろんなきっかけって結局この生活してる地球にしかないものだと思ってるから、だから俺は旅行が好きです。とにかく、お金が纏まったら海外に行きたい。地元ではまともにやるけど、海外でははっちゃけることが全てっていうか目標。

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